奈良好き24年の私が新たに恋した下北山村 〜歴史紀行 水編〜

執筆者
松村奏子
松村奏子
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すごい岩…
こんなところを筏(いかだ)で下っていたの…?

 

 

下北山村は林業が生業の土地である。山から伐りだした木材を筏状にして、川を流して出荷していた。村にはそれに乗って操る筏師がいた。

 

ここは下北山村の東、和歌山県北山村にある七色ダム。

 

 

ここには昔「七色の滝」があり、下北山村の筏師たちは筏に乗って下ったという。

 

下北山村の池原という場所から4時間かけて筏に乗り、最後、北山村の筏師に引き継ぐ前の最大の難所である。何人もの筏師がここで命を落としたらしい。

 

――滝とはいっても累累たる巨石の乱立する間をほとばしるものすごい急流の連続であった――

 

『下北山村史』にはこのように書いてあったが、実際にこの岩場を見るまでは全く想像ができていなかった。危険な場所だったため、川の改修も行われたようだし、ダムができる前は水量も多く、ここまで岩がむき出しではなかったかもしれないが、ひとつ操作を誤ったら岩に激突して投げ出されるのは簡単に想像ができた。

 

 

岩場のひとつに小さな仏様と「南無阿弥陀仏」の文字が刻まれている。これは「高岩の磨崖仏」と言われているもので、下北山村とも縁のある修験者・実利行者が鎮魂のために彫ったと言われている。

 

 

実は、私はこの仏様のところまでたどり着けなかった。この日は雨上がりで、濡れた岩場はツルツルと滑り、足をくじきそうになる。それで心が折れた。

 

 

なぜ、あんなところに彫ったのか。

 

川の対岸に回って見ようとしても、どこに彫ってあるか肉眼では確認できない。しかし、見えにくいからこそ、かえって形式的でも政治的でもない「祈り」を感じた。

 

一方、難所であるからこそ、この滝を乗り切ることは「かっこいい」ことだったのだろう。増水時に13人くらいが筏に乗って下るときは、七色の村人たちがわざわざ見にきたそうである。きっとこの川に歓声が響いたはずだ。もしかしたら、恋も生まれたかもしれない。

 

 

さて、滝を乗り切った後、筏師はどうしたか。

 

滝の先には茶店があったと村史に書いてあった。そこで一服したらしい。豆腐のオツケや魚の煮付などが売られ、いわゆるツケで食べていたようである。そして、「不動峠」という峠道を越えて下北山村に帰ったという。

 

 

不動峠の道は北山村から下北山村に通じており、通称「筏師の道」と言われている。だいぶ短縮バージョンではあるが、今回、この峠道を筏師と同じ方向に歩いてみた。つまり筏師が仕事を終えて帰る道である。

 

途中、大きい岩、岩にしがみつく木、青々としたシダ植物、大小の滝、道端の石仏など、さまざまな表情を見せる道に驚いた。

 

 

天気も悪く足元は悪かったが、この道は昔、下北山村に海側の物産が入ってきた道程で、人の行き来も多くあった基幹ルート。昔はもう少し歩きやすかったに違いない。

 

 

なんだか楽しくなってきた私は、滝壺を見ては「筏師さん、この滝壺に浸かって休んだかも。あそこの滝がお勧めだよ、なんて仲間同士で情報交換したかも」などと想像して興奮した。実際、私が男でこれが夏場だったら、入りたい滝や川がいっぱいあった。

 

 

でも、一方で下北山村の人々が、自然に対して畏敬の念を持って暮らしていることも薄々気付いている。

 

実際、筏師は「水神さん」を信仰していたらしく、筏に乗っている時は直接水面に小便をしなかったらしい。特に「七色の滝」を下る際は、筏師の妻は川に御神酒をついで無事を祈ったという。

 

もしかして、「この滝に飛び込みたい」なんて想像してはいけないのだろうか。それは誰にも聞いていないのでわからない。実はちょっと聞く勇気もない。

 

やがて岩や滝は姿を消し、下北山村の「不動峠」に着くと辺り一面が植林に変わった。狐にでもつままれたような変な気分だった。

 

 

このあたりは少し平地があり、広場のような空間になっている。ここには不動堂(現在は地蔵堂と呼ばれる)と茶店があり、筏師の休憩場所だったと村史に書いてあった。

 

筏師はデビューすると、その帰り道にこの不動堂の前で「ナルコマイ」を踊らされたという。

 

特に歌も儀式もなく、仕事着のままサカキの枝を持って踊らされたそうだ。それを大人たちが見て楽しんだらしい。シャイな若い筏師が、恥ずかしそうに踊りはじめ、徐々に弾けていく姿を勝手に想像した。茶店の主人は何人ものデビュー舞を眺めただろう。

 

現在、茶店はない。不動堂は倒壊寸前だったところを、地域の保存会の方々を中心に再建され、2020年11月に落慶式が行われた。

 

 

再建されたお堂は想像以上に大きいものだった。そのお堂から下北山村の魂のようなものを守りたいという気迫を感じながら、冷たい強風で頭が痛くなり、慌てて毛糸の帽子を被って峠を後にした。

 

 

この道中、ご案内いただいた下北山村生まれ下北山村育ちの職員さんが、私の目の前を軽やかに歩いていた。東京のなんの凹凸もないアスファルトの上を、ポケットに手を突っ込んで歩く少年のような感じで。

 

仙人か天狗か?

 

と、後ろからよろけながら見ていた。男女という性差ではない、何か圧倒的な違いを感じる。自然への畏敬の念も、道ばたの滝の見え方も、私とは違うのだろうと思った。

 

私には彼が見ている世界は一生見ることができないのかもしれない。

 

私は、歴史が薄い住宅街に生まれ育った。これからもずっとつきまとう「生まれ育った土地」の呪縛に少し凹む。下北山村に生まれ育った方々を、私はこれからずっと憧れの眼差しで見つめるのだろう。

 

photo by Togo Yuta , Akashi Kensuke

Matsumura Kanako
松村奏子

神奈川県出身。学生時代に東洋美術史を学ぶ。19歳から奈良に通い、2016年に奈良市内へ移住。2022年に下北山村へと移り住む。美術館などの学芸員を経て、現在は村の教育委員会に所属し、下北山民俗資料館の管理・運営に携わる。奥大和の文化に興味を持ち、市町村史をわかりやすく資料化することをライフワークとする。

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