奈良好き24年の私が新たに恋した下北山村 〜歴史紀行 山編〜

執筆者
松村奏子
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「これから歌を歌います」

 

これくらい唐突に始まったような気がする。

 

歌い始めたのは下北山村に住む御年92歳の和田八郎さん。歌のタイトルは、「祝いめでた」と「芋の株」。昔、山仕事をしていた時代、山の神の祭りの時に歌っていた歌だそうだ。

 

 

八郎さんは山仕事の中でも「ダシ」をされていた方である。

 

「ダシ」は「出し」のことで、伐られた木材を筏場まで運ぶ仕事である。「運ぶ」と言っても、その場所によってさまざまな方法がとられていたようで、ここでは説明しきれない。イメージでいうと、地形を読み、時に繊細、時にダイナックな方法・技術を駆使して運材する職人集団みたいな感じだろうか。

 

 

八郎さんはまっすぐに私の目を見て歌ってくださった。その目は、私が今まで見たことがない目だった。夢かうつつかで言ったら、夢寄り。実際どうだったかわからないが、現在と過去を行き来しているような目だった。

 

八郎さんの目に見惚れる。

 

涙腺が太いのか、いつも涙が流れはじめるのは左目なのだが、なぜか今回は右目から出てきて自分でも驚いた。

 

下北山村は山の文化である。山の恵みである「木材」で年貢を払っていた土地で、人々の暮らしは林業によって支えられていた。

 

 

そんな土地には「山の神」に対する信仰がある。しかし、『下北山村史』を読んでみたものの、なぜかつかみ所がなかった。生業の主が農業である山間部の村史を読んだこともあるが、それとは明らかに違う印象を受けた。

 

 

ある論文に書かれていたが、奈良吉野山間部の山の神は山中に遍満する神霊的なものだという。

 

なるほど、農村と山村では同じ山の神でも違うのか。

 

なんだか、土地の人が見ている山の神をイメージしたくなった。そして、役場の方が八郎さんに会わせてくださったのだ。

 

山の神は通常「女の神様」と言われており、女性が山に入ると嫉妬すると言われ、女性が接してはいけない神様であることは理解していた。「そのあたりの引き際は気をつけますのでと」お伝えして、お話を伺うことになった。

 

 

通常11月7日と1月7日が山の神の祭りの日で、「その日は山仕事をしてはいけない」などと言われるが、八郎さんのところでは11月7日だったそうだ。

 

山仕事をしている人が行うお祭りで、7回洗った洗米や大きいボタモチを供え、そのボタモチは持って帰って家族で分けたりしたそうである。村史にも「直径15㎝くらいのボタモチ」とか「三合ボタ」と書いてあったことを思い出し、「大きすぎないか・・・」と、巨大なボタモチが置かれている光景を想像した。

 

そして、先ほどの歌が始まった。その歌は山の神の祭り専用のものではなく、お祝いの席などで歌われるものらしい。

 

山仕事は山に簡易の小屋を建てて泊まり込みで作業をするため、その夜、歌の上手い人から教えてもらって覚えたそうだ。八郎さん曰く「夜、何もすることがないから」ということらしい。下北山村は、車があれば30分で主要な集落を回れる、比較的コンパクトな村であるが、それでも地区ごとに節が違うというからおもしろい。今の感覚で歴史を眺めてはいけないなと改めて思った。

 

ちなみに村史には譜面付きで掲載されているので、興味のある方は是非。

 

 

八郎さんの歌は思ったより穏やかなものだった。

 

「男性が集まって飲み食い」というと、どうしようもないテンションの飲み会を思い出してしまうのだが、それとはなんだか違う気がした。変に熱すぎず、カラッとしていて且つ温かい飲み会風景を想像した。

 

そして村史にこんなことが書かれていたのを思い出した。

 

――大和は「田」の文化で、吉野・熊野は「山」の文化である、といわれるように、社会や文化のあり方に違ったところがあるようである。村の人も「平坦はマルイが村の衆はアライ」というようないい方をする。アライというのは、荒っぽいとか粗野という意味ではない。農民的なウェットなところがなく、むしろドライでスマートでさえあるというわけである。村の人たちが、全体的に農民的なパーソナリティとちがったユニークなものを持っている事にはかわりない。――

 

その後、実際に山の神が祀られている祠を訪ねた。

 

今は時代も変わった。村史が編纂された時代もすでに山の神の信仰が減っていたようだが、さらに信仰者は減っているだろう。

 

 

八郎さんは、お父様が柿の木で作った「ヘノコ」(山の神にお供えする男性のシンボル)が、「誰かに盗まれた」と言っていた。同じ物かどうかはわからないが、「ヘノコ」は今もあり、一方で、村史に書かれていた「ケズリバナ」はすでになかった。

 

 

祠は想像以上に綺麗に整えられていた。入口付近に生えていた高級絨毯かと思えるくらいフカフカの苔の感触が忘れられない。

 

下北山村の人は山を感じながら生きている。

 

今回、八郎さんのお話を伺っても山の神の全貌はわからなかった。でも、そういうものだろう。変に情報化された言葉を使って頭で理解したくなくて、聞き出すのはやめた。

 

でも、やはり諦めきれない。

 

いつか、ストンと腑に落ちるような感じで、身体や魂のレベルで理解できる日がくるといいな。下北山村の人々から見た世の中を感じることができたら幸せだろうな。

 

それまで、ただひたすら勉強してみようと思う。

 

Matsumura Kanako
松村奏子

神奈川県出身。学生時代に東洋美術史を学ぶ。19歳から奈良に通い、2016年に奈良市内へ移住。2022年に下北山村へと移り住む。美術館などの学芸員を経て、現在は村の教育委員会に所属し、下北山民俗資料館の管理・運営に携わる。奥大和の文化に興味を持ち、市町村史をわかりやすく資料化することをライフワークとする。

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