この地に生まれ70年余。豊かな自然と人々のぬくもりと暮らした日々を振り返る。

執筆者
山本静夫
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池峰集落と生活の記憶

私の住む池峰地区は、下北山村で一番標高の高いところにある集落です。

 

 

 

集落の北側の国立公園になっている池の平公園一帯は、今はゴルフ場としてきれいに整備されていますが、子どもの頃はまだ一部が野原でした。

 

 

また、地域の名前(池の峰)のもとになっている明神池は周囲1kmほどの遊歩道があり、奈良県で一番大きな天然湖です。

 

 

「入るに谷無く、出るに沢無し」と言われるこの池は、川も谷もないのに年中ほとんど水位が変わらず、静かな水面は周囲の山や空を映しています。

 

 

明神池をご神体とする池神社には、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。「役行者がその神秘さにうたれ神を祀ったのが神社の始まり」という言い伝えや、池にまつわる様々な伝説はさておき、公園や周囲を回る遊歩道一帯は少年時代の絶好の遊び場でした。手に手に棒切れを持ってチャンバラごっこをして、忠臣蔵の討ち入りだとか、時代劇映画の主人公の真似をして駆け回ったものです。

 

また、終戦前後に生まれた私や友達は、当時食糧難でいつもお腹をすかせていたという記憶がありますが、この明神池の周りの木々の中に何本かある「シャシャボ」という木に成る実やケンの実(今はどんな木だったか覚えていない)を食べておやつ代わりにしたり、水面に伸びた大きな木の枝に上って、水面を泳いでくる鯉を見たりしました。

 

悠然と泳いでくる鯉の中には私の身長より大きいかと思うような、背筋がゾッとするほどのものがいました。

 

 

池峰には川や常時水のある谷がなく、人々は小さな谷から竹樋で生活用水を引き、それを甕(かめ)に貯めて飲み水や風呂に利用していました。水が少ないので、風呂は隣近所で交代に焚いて入りました。もちろん燃料は薪。五右衛門風呂のゲス板の間から熱い湯が上がってくるので、体を動かして熱い湯を避けた記憶があります。

 

飲み水用の甕には、時々ミミズが入っていたこともありました。今考えると随分不衛生ですが、誰も病気にもならずに育ったのが不思議です。

 

冬季などに谷水が枯れると、公民館下の井戸から担い桶(にないおけ)で水を運びました。大人は体の前後に桶を二つ下げて運びましたが、子どもの私と弟は真ん中に桶を一つだけ固定して二人で運びました。歩調が合わないとチャプチャプと水が波打ってこぼれるので、それを防ぐために大きな蕗の葉っぱなどを浮かべて運んだものです。テレビで、発展途上国の子どもが甕を頭上に乗せて水を運んでいるのを見ますが、あまり変わらないなあと思うことがあります。

 

 

川遊びをするために、五田刈(西の川の上流部)まで30分ほどかけて歩いていきました。夏休みともなれば、母親に「こづかい」をせびって買ってもらった小さなヤス(魚を突いて捕らえる道具)に見様見真似で竹の柄をつけて、夢中でアマゴなどの小魚を追ったものです。

 

一度だけ、日の暮れるまで川遊びをして、なにかあったかと心配した母が、隣近所のおじさんたちと提灯を片手に探しに来たことがありました。もちろん、こっぴどく叱られたことは言うまでもありません。

 

 

街暮らしの従兄から教わったこと

さて、大人になってからのことを少し紹介しましょう。

 

東京で親の後を継いで工務店を経営している従兄が、父親の故郷である池峰にやってきたときのことです。どこかいいところを案内しよういうことになったので、その役を弟に任せました。

 

いろいろ考えた末、五田刈川へ行くことにした弟は、ワッパ(丸い形の水中メガネ)を用意して従兄と二人で出かけました。

 

 

その頃の五田刈は今より水量も多く、太い木で組み上げられた井堰(いせき)が所々にあり、そこは深い渕になっていました。ワッパには、ヨモギや川柳の葉を採ってきて石の上でたたいて、その液汁を曇り止めと称して塗ったものです(効果のほどは?がつきますが……)。

 

参考写真:西の川の井堰

 

従兄は生まれて初めて、そのワッパをつけて中腰で川の中を覗きました。すると、覗いた途端、澄みきった川の流れ、川底の小石までくっきり見えること、水中にいろいろな小魚が見えることにびっくりして顔を上げ、「ワー!魚が泳いでる!」と大きな声を上げたということです。

 

私らにしたら当たり前のことで、珍しくもないことですが、感動した世田谷育ちの従兄は、次々に下流へ移動しながら潜ったり浮いたり、もういいだろうというくらいまで川を離れなかったと聞きました。40歳をいくつか過ぎていたであろう「いいオジさん」が、家に帰ってからもしきりに、少年のようにその話をしていたそうです。

 

また、大阪で画廊を営んでいた別の従兄(70歳代)は、年老いた母親と一緒に暮らすことになり、近所の家に帰ってきました。その晩、私の家で歓迎会と称して夕食を一緒にした後、帰宅しようと表に出て、何気なく冬の夜空を見上げた途端「ワー!」と声を上げたので、何事かと私もつられて上を見たら、淡い月明りの空に満天の星空が広がっていました。

 

 

天の川もはっきり見える、そんな星空を見ていた従兄はポケットからスマホを取り出すや、「○○ちゃん、今、田舎で星見てるんやけど、すごいで、こんなん初めてや」と大阪の友達に語った後、「ほうきで掃いたら落ちてきそうや」と続けたものです。

 

ほうきで星を掃いて落とす。そんな表現は今まで聞いたことがなかったけれど、しばらく一緒に星を見ながら、なるほどぴったりの表現かナーと感心したものです。

 

このような話を持ち出すまでもなく、私たちには当たり前の何気ないことが、見たり体験したりする人によっては珍しく、感動を生み、喜んでもらえるということを改めて思いました。

 

 

豊かな森林に感謝して

澄みきったきれいな空気(そら)も川の流れも、周りに豊かな森林があってこそ。

 

 

その山で従事する地元の方が少なくなった今、地域おこし協力隊の方や、それを卒業された方々が、いろいろな林業技術を身につけ、会社を興し、地元の人と一緒に懸命に頑張っておられる姿を見て大変うれしく、また頼もしく感じています。

 

 

池峰では従来、林業全般の繁栄と従事者の安全などを祈願して、地元の林業の関係者だけで行ってきた「山の神=大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)」の神事の対象を区民にも広げ、また地域も池峰に限らず、協力隊員や森林組合職員の方々、賛同者にもお参りいただいています。簡素なお祭りですが、大切に続けていきたいと願っています。

 

 

この山の神行事は毎年正月7日と11月7日の年2回、池の平公園の一角にある小さな社で神事を行い、その後、直会(なおらい)が開かれています。秋、冬とも7日の直近土曜日、午前7時から催行していますが、関心のある方はどなたでもお参りいただけますので、どうぞおいでください。

 

※池神社や山の神の詳しいことは「下北山村史」に記述がありますので、詳しくは役場までお問い合わせください。

 

 

この地に生まれて70年余、ほとんどの歳月をこの村で生活してきました。

 

振り返ればこの間、 一度も都会や他の土地で暮らしたいと考えなかったのはなぜだったんだろうと思います。子どもの頃から変わらずあたたかく接してくれる地域の人々と、豊かな自然に囲まれた村での生活が、人見知りの私が暮らすのにきっと合っていたのでしょう。

 

また仕事柄、「村のため」とか「村民のため」にがんばろうと肩に力が入って、この言葉を常時口にしていた時期があったのですが、その頃、建設の仕事で出会ったある山主さんとの用地交渉の席でこう言われました。

 

君は村とか、村民のためとか言う前に、自分や家族が暮らしやすい地域にするにはどうしたらよいか、と考えた方がすべてのことに柔軟に対応できて仕事が前に進むんじゃないか。

 

私は若造の自分が耳障りで小療な言葉を連発していたことに気がつき、よい勉強をさせてもらったと思いました。また、仕事上の失敗を、「君がこれをやりたいと言ってきたときからうまくいかんのじゃないかと思っておったんや。いい経験になったやろう。これからがんばれ」と叱らずに許してくれた上司もいました。

 

私は今でも、この方たちをはじめ、多くの先輩諸氏の言葉、思いやりのあたたかさや大きな心に包まれて現在があるんだろうと、ふと昔を思い出すことがあります。

 

 

こんな人物になりたい、なんとか住みよい村に等々……。その思いは叶ったかどうかわかりませんが、今後も老骨に少しだけ鞭打って、皆さんと暮らしていきたいと思います。

 

Yamamoto Shizuo
山本静夫

下北山村出身。「電源開発株式会社(現:J-POWER)」に入社後、下北山村役場に奉職。職員として勤務したのち、2004年に下北山村副村長に就任。「NPO法人サポートきなり」の設立と同時に理事長に就任し、住民の生活支援に取り組む。現在は老人クラブの会長を務めながら高齢者の方々と日々活動するほか、畑仕事や趣味のゴルフを楽しんでいる。

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