僕は奈良県の南部にある、この下北山村で生まれ育った。現在の人口800人ほどの小さな村だ。
役場に就職したのが27歳の時。それまでは奈良市内にある公立中学校に5年ほど勤務した。下北山村には高校がなく、15歳の春に親元を離れて12年ぶりに故郷に戻り、役場という場所で勤めることになった。
Uターンしたのは簡単に言えばタイミング。でも、心のどこかで、将来は村に帰りたいと思っていたのは間違いない。
これが職場の下北山村役場。レトロな建物だ。
役場に就職して5年が経ったころ、僕は村の面積の9割以上を占める森林・林業の担当になる。そして、担当になって初めての仕事が「切り捨て間伐」のしごとをチェックすることだった。
当時は、山のことなど素人同然。「間伐」が木を育てるための“間引き”であることぐらいは分かっていたが木が、その場に“切り捨て”されることに、なんとも言えない気持ちになった。
“切り捨て”であろうが、間伐して木を育てることは、山の土壌や生態系の保全につながる作業なので、十分効果的な仕事なのだと、今ならその理由は分かるが、「切り捨て間伐」という呼び方も悪いなと思う。この業界では、正式には「保育間伐」とばれている。
この機会に山の話をもう少し書いていきたいと思っているのだが、その前に簡単な自己紹介と村の紹介をしたい。
小さな頃から遊びは大自然の中、夏は毎日のように川で魚を捕まえて遊んだ。水中眼鏡をつけ、初めて魚を捕まえた時のことは、今も鮮明に思い出すことができる。僕の周りには当たり前のように自然があった。
僕が小学生の頃、秋の稲刈りの時期には赤とんぼが一面に飛び交う風景があったし、大きな台風が来ればその田んぼがあっけなく水に浸かってしまった。翌日、田んぼの跡地にアマゴが打ち上げられていたのを覚えている。
自然とは豊かなものであり、恐ろしいものでもあり、食料を提供してくれるものでもあった。そして、心のどこかでこのような「自然と関われる仕事をしたいな」と思ったことを、ぼんやりとではあるが思い出す。
村は、奈良県の奥の奥、三重県と和歌山県の熊野地方に限りなく近い場所にある。海に近い奈良県と言ってくれる人もいるくらいだ。
昔は熊野から生活物資が流入していたので熊野地方との関わりも深い。歴史的にも、生活文化は大和地方よりも熊野にあった。当時は山から伐り出した木材を、川の流れを使って隣村まで運んでいた。木を組んだ筏を使ってだ。それが、お隣の北山村では「筏下り」と呼ばれ、今では観光資源になっている。
海まで車で30分ほど。大人になった僕は、よく海釣りに行くようになった。釣りはいい。釣りに行く前は必ずワクワクする。大物がかかってからのやり取りはドキドキだ。そしてなんといっても食べておいしい。最近は2人の子どもを連れて釣りに行くことも増え、秋以降の我が家の休日の定番になった。海の近さはとてもありがたい。
そんな小さな下北山村で、僕は多くの人に山に関心を持ってもらったり、山の生業をつくっていくような活動や取り組みを始めている。
山の暮らしは楽しいことばかりではない。でも、山での暮らしは楽しいことがいっぱいだ。山のことって、世の中のほとんどの人は知らないんじゃないかと思ったりする。山を使うこと、山で木を伐ること、そのどれをとっても刺激的だしかっこいいのだ。
でも、山はちゃんと手をかけてあげなければだめになる。林業としてだめになる、木材としてだめになる、だけじゃなくて、下手をすると自然を破壊し、土砂災害を引き起こしたり、水源が枯渇したりすることだってある。
水はみんなのものだ。みんなの中にも当たり前にあると思う。でも今は、都会の人は水と山がつながっていなかったりする。
人は、山や森林とうまく付き合わなければいけない。でも、今はそうなっていない。自然の中に人はいる。木をたくさん使えば良いってことだけではない。山の木を全部切ってしまえば、山は丸裸になる。
これから先、下北山村を含めた山間部では人がもっといなくなる。みんなの山は誰が守るのか。難しい課題ではあるが、もっとみんなが山に関心を持てるように、山を守りながら暮らすかっこいい人たちがいるんだということを伝えたい。
今だんだんと、様々な人が関わってくれるようになってきた。もちろん失敗することもうまくいかないこともある。そんなことも含めながら、僕なりに、この村のこと、山のことを、この場を通じて書いていきたいと思っている。
All photo by Togo Yuta
- 北 直紀
- Kita Naoki
下北山村役場職員。1983年、下北山村生まれ。同志社大学経済学部卒。幼少期から中学卒業まで、雄大な自然の中で育つ。高校・大学に通うために奈良市内で下宿。中学校の教職員を経て2010年にUターン。下北山村の人々が、試行錯誤しながら取り組んでいることを伝えていけたらと思っている。