かつては紀伊国牟婁郡に属し、新宮代官所の支配を受けた歴史を持つ下北山村は、奈良・和歌山・三重県の県境に接し、村の大部分が吉野熊野国立公園に含まれる自然豊かなところです。県都・奈良市からは、南へ約120km、県庁から電車とバスを乗り継いで全行程約4時間、そのバスも一日一住復しかないという県内では最も奥地にあります。
下北山村には、池原ダム下流河川敷約19ha を利用して造られた「下北山スポーツ公園」、テニスコート10面、陸上競技やサッカーのグラウンド2面、キャンプ場などのほか、収容人員50人から70人の宿泊施設2棟や温泉「きなりの湯」のほか、格安料金で人気の村営「池の平ゴルフ場」、ブラックバス釣りの聖地ともいわれる「池原ダム湖」や「七色ダム湖」「前鬼川渓谷」「不動七重の滝」などの観光資源があります。
今でこそ、ブラックバス釣りで有名になり、関東方面からお越しいただく方も増えておりますが、県内の人にさえ下北山村は、三重県か和歌山県と思われていたくらい知られていない村でした。それが1988年、全国からマスコミが押しかける、村の歴史始まって以来の騒ぎがあったのです。
WANTED!ツチノコ
村では長らく、主産業である林業の低迷から村の自然を活かし、滞在型の観光を推進してきました。当時の私は、自然に恵まれているとは言っても、それは山村ならみな同じ。切り札にはなりにくい。この村にしかない、みんなが行ってみたい、出かけてみたいと思うような、なにかネタがないものだろうか。村から情報発信ができる「何か」が欲しいと考えていました。
そんなある日、ある記事が私の目に飛び込んできました。近隣の熊野市で発行される新聞に村に住む方が、自宅裏の畑でツチノコを見たというのです。
記事を読んだとき、活性化のきっかけになるのではとピンときた私は、ガソリンスタンドを営む同級生の橋本君に、ツチノコ探しを持ちかけました。「探検隊を出そう」と彼も乗り気でした。ただ、探すにしても、ツチノコがどのようなものかを知らなくては探せないし、探すときは他の村民と一緒の方がいい。そう考えて、毎年11月初旬に開かれる村の文化祭で村民に呼びかけることにして、展示するための資料集めと、目撃者探しを始めました。
調べてみると、いろいろなことがわかりました。下北山村史には11 行にわたって、「白蛇と同様にむしろ怪異に属するかもしれないが、見たという人が何人もいる。太さのわりにうんと短いのが特徴で、上からマクレて(転がり落ちて)来るという」と、ツチノコと思われる記述がありました。また、言い伝えで聞いたことがあるという人や、自身がそれらしき生物と遭遇したことがあるという6名を見つけることができました。
集めた資料と模型を文化祭で展示するとともに、会場で「ツチノコ探険隊員」と「野生生物研究会会員」の募集を開始。NHKが取り上げてくれるも、残念ながら村民の反応は皆無に近く、探検隊員はたった2人、野生生物研究会の応募者はゼロでした。
そこで文化祭期間中に、急遽「目撃証言を聞く会」を開催。参加者は20人くらいだったものの、集まった20人を口説いて、ツチノコが冬眠から目覚める翌年春に、野生生物研究会で探検をすることにしました。
また、外部の人たちも来れるイベントにしようと考え、賞金付き手配書を作り参加者の募集を開始。1988年元旦の新聞の地方版に掲載されると、その3日後に18歳の女の子から手紙で参加の申し込みがあり、さらに週刊誌、全国紙に記事が載るとたちまち応募が殺到。結局、村外からの申し込みは100人で打ち切るほどの大盛況になりました。
前夜祭の会場となったスポ-ツ公園には、16都府県からの参加者100名と29社80名の取材陣、村からの参加者50名が集まり、この日のために仲間が集めた山川の幸、マムシ酒やマタタビ酒を賞味しながらの交流は異様な雰囲気に包まれました。
そして、翌日は目撃地点周辺の林のなかを探検。文字通りの大騒ぎとなりました。
しかし残念ながらというか、やっぱりというか、ツチノコは発見されずじまいでしたが、ツチノコ探険が全国に紹介されたことによる反響の大きさと、参加者とのふれあいから生まれた大きな感動が、メンバ-に大きな自信を与えました。
しかし、このことを今後にどうつなげていくかという課題も与えられたわけで、一回目は自然派生的にマスコミの報道が続いたことにより参加者を得ることができましたが、今後はマスコミが紙面でどういう扱いをしてくれるかに左右されるわけです。このツチノコフィーバーを一過性のものにしてはならないと、秋にもう一度、ツチノコ探検隊を開催したのですが、マスコミも大きくは取り上げてくれません。当然ですよね。ツチノコはおろか、いつもいるアオダイショウやマムシさえ見つからないんですから。
案の定、参加者は半減してしまいました。ただ、二回やってわかったことがあります。それは、参加者の3分の1がリピーター、3分の1がリピーターの同伴者、残りの3分の1が初めての参加者だということです。このことから私自身、ツチノコ探検にいつまでもこだわるより、自然の豊かな下北山に来て良かったと思ってもらえるようなことをした方がいいと考えるようになりました。
建国!ツチノコ共和国
そこで思いついたのが「ツチノコ共和国」という仮想の国をつくるアイデアでした。ツチノコがきっかけで村に来てくれた人に、先ず「国民(会員)」になっていただき、その方たちに村の情報を発信していく。それを足場に、村と関わりをもつ人を増やすと同時に、村のよさをわかっていただける人、下北山村のファンをつくろうという試みでした。
つながりを持てば、マスコミに頼らずに情報を届けることができるし、情報を得ることもできる。また、そこから新たな出来事の可能性も生まれるのではないかと考えました。
まず、探検に参加してくれた人に、「国民」になりませんかと呼びかけたら、すぐに何人かから反応がありました。
そして、1989年4月の22,23 日に「ツチノコ探検パート3」を実施し、前夜祭で「ツチノコ共和国」の建国を宣言しました。役職は、ほとんどシャレで決めました。「ツチ国王」は、貫禄がある建設会社員の西岡君、「ノコ王女」は恥ずかしいからと村内の女性から断られたため、探検に参加してくれた女性。(むろん、共和国に王がいることについておかしいと言わわれるのは折り込み済みです)。
爽里大臣は村議の下村氏、大喰大臣は大食漢の玉中収入役、自然エネルギー庁長官はガソリンスタンドの主人、奮歌庁長官はカラオケ大会の優勝者、運遊大臣は自動車整備工場の主人という具合です。私は、自民党の賢人会議をもじった愚人会議の議長に就任し、当時は「ツチノコ共和国の金丸信だ」と言ってまわっていました。
国民になる資格は、「遊び心の村おこし活動を理解できる」こと。そして、年1000円の税金(会費)を納めることです。口コミやマスコミの報道によって、1年で700人以上が国民となり、総勢約1700人にパスポートを発行しましたが、現在は300人ほどになりました。
一人でも多くの人に村を訪れてもらうために、共和国へのツアーも組みました。最初が建国の年の6月、村に一の谷というところがあり蛍もいる。平家の落人伝説もあるところから「ツチノコ共和国夏の旅蛍の源平合戦と平家物語の集い」、昼間は平家琵琶を聞き、夜はゲンジ・ヘイケボタルの観賞会。さらには「ツチノコ共和国冬の旅サンマの干物づくりと突進鍋の集い」というように、とにかく国民に来てもらう機会をつくりました。
イベントも、仕事としてやっているのではありませんから、自分たちも楽しみながらやれるものでなければ長続きしません。スタッフとして参加している者が特技を発揮して、参加者に「喜んでもらえた」ことが楽しみとなり、継続の力になっていると思っています。
村の子どもたちは中学を出ると進学のため村を離れていき、そしてそのまま、ほとんどの者が村に帰って来ません。とにかく過疎対策、村の活性化を図らないといけないのです。
そんなことを思っていたら、昨年、村に移住してきた若い人たちを中心に「一般社団法人つちのこパーク」が設立されました。事務所建物には、ツチノコ探検から今日までの活動の中で集まったグッズや書籍などツチノコ研究者に垂涎のお宝が展示されています。
当時の様子を記録したドキュメンタリー映画「おらが村のツチノコ騒動記」も上映され、多くの人が集まりました。
村の過疎化はまだ続くだろうし、その流れを止めるのはなかなか難しい状況です。それでも私たちはこれからも、村の人間や出身者が「下北山村」の名を誇りを持って答えられるように、知恵を絞っていかなければなりません。私もまだまだいろいろ活性化の役に立ちたいと考えています。
この記事を読んでくださったあなたも、ぜひ機会があったら、下北山村を訪れてください。お待ちしています。
- 野崎和生
- Nozaki Kazuo
昭和21年、下北山村生まれ。 昭和40年から平成18年まで、関西電力株式会社に勤務。その間を含め、下北山村議会議員を6期務める。昭和63年、ツチノコ探検を有志とともに企画・実施。翌年「ツチノコ共和国」を建国。現在に至るまで、ツチノコ共和国代表として村の自然を生かした交流活動と情報発信を展開している。平成9年度「地域づくり団体」自治大臣表彰受賞。平成21年度森の名人(森の伝承・文化部門)認証。